桐山太右衛門ゆかりの、豆腐屋
薬園台界隈の巨木・名木を撮影した帰りに、成田街道沿いの田中豆腐店に立ち寄った。
吉宗の時代に丹羽正伯と共に薬園台で薬草栽培の経営に乗り出したのは桐山太右衛門。太右衛門か三了の死後、田中家と林家から養子を得た。子孫は、後に田中豆腐店を手掛ける。豆腐を買いながら、桐山一族についての話を聞いていると、店の主人と思しき人が現れ、桐山三了を祀る祠に案内してくれた。
◆ 桐山三了を祀る、屋敷神の社
中の石碑には、右から、保食命、宇賀之寶命、食 魂神 桐山三了と刻されている。
※ 食物を司る神は、『古事記では「宇迦之御魂神」とあり日本書紀では「食 魂神」の名で出ている。』
つまり、この石碑には、食物を司る神の名が、三つ並んで刻されていることになる。
※※ 桐山三了については、『江戸買物独案内』 売薬の項に、『本家 桐山三了 ・六味 地黄丸
・八味 地黄丸 不老長寿の妙薬 | 室町三丁目浮世小路角』 と、記載されている。
この屋敷神の社、右の段は、上記の通り食物を司る神を祀り、左は、九頭龍を祀る。
※箱根神社も九頭龍伝説がある。九頭龍は一般に川の神・山の神として祀られる。この家のご主人は、
商売繁盛の神という説をとっているようだ。この点は、箱根・九頭龍神社の由来と同じである。
屋敷神の社の全貌/長い間よく保たれている。
☆ 参考資料 2件を引用する、
(1) 『このお宅は江戸享保9年頃に、採薬使で和薬種問屋の桐山太右衛門が、江戸日本橋から一緒に滝台野(その後薬園台)に移住してきた人たちの一人です。お宅の裏の屋敷神のお社には、当時、桐山太右衛門の親か兄弟にあたる桐山三了を刻んだ石碑がありました。年代不詳ですが、明治以前で有ることは確かですので、これまで不明だった「桐山太右衛門」と「桐山三了」が別人であること、「三了」は「三子」ではないことが、他の史料とも付け合わせてみても、確かなものと確信しました。』
(「薬園台130222(その他社会学)-爺野徒歩徒歩・・・」より)
(2) 『桐山三了という人物が、浜御殿のさとうきびを移植して、世に広めるように幕府から言い渡されたのだが、三了は、植え付ける土地を持っていないので、太右衛門が持っている下総国の薬園に植え付けることになった。・・・
桐山太右衛門らの墓を桐山三了が建立した。』
(「内外の伝統的な砂糖製造法(5)|農畜産業振興機構」より)
★ 今後研究したい資料は、日本博物誌年表 何故ならば、次の記述が気になるから。
『參三月十六日、丹羽正伯,植村左平次,飯田道调.本賀徳連,夏井松玄,桐山太右衛門、 江戸を出立、山城.丹波.但馬.丹後.若抉.飛驊.近江で採薬して、五月二十六日に帰府する(植村御用書留、月堂見聞集)。女桐山太右衛門(三了)は薬種商。のち、正伯とともに、 ...』
(「日本博物誌年表-磯野直秀-Googleブックス」より)
◆ 買った豆腐/おぼろ豆腐と焼どうふ 、おまけとして頂戴した油揚げ
おぼろ豆腐は、そのままと、ポン酢と、醤油で食べ比べた。どれも、なかなか美味しい。
焼どうふは、すき焼き風にして食べた。これも旨い。鍋には、焼き豆腐があう。
吉宗の時代に丹羽正伯と共に薬園台で薬草栽培の経営に乗り出したのは桐山太右衛門。太右衛門か三了の死後、田中家と林家から養子を得た。子孫は、後に田中豆腐店を手掛ける。豆腐を買いながら、桐山一族についての話を聞いていると、店の主人と思しき人が現れ、桐山三了を祀る祠に案内してくれた。
◆ 桐山三了を祀る、屋敷神の社
中の石碑には、右から、保食命、宇賀之寶命、食 魂神 桐山三了と刻されている。
※ 食物を司る神は、『古事記では「宇迦之御魂神」とあり日本書紀では「食 魂神」の名で出ている。』
つまり、この石碑には、食物を司る神の名が、三つ並んで刻されていることになる。
※※ 桐山三了については、『江戸買物独案内』 売薬の項に、『本家 桐山三了 ・六味 地黄丸
・八味 地黄丸 不老長寿の妙薬 | 室町三丁目浮世小路角』 と、記載されている。
この屋敷神の社、右の段は、上記の通り食物を司る神を祀り、左は、九頭龍を祀る。
※箱根神社も九頭龍伝説がある。九頭龍は一般に川の神・山の神として祀られる。この家のご主人は、
商売繁盛の神という説をとっているようだ。この点は、箱根・九頭龍神社の由来と同じである。
屋敷神の社の全貌/長い間よく保たれている。
☆ 参考資料 2件を引用する、
(1) 『このお宅は江戸享保9年頃に、採薬使で和薬種問屋の桐山太右衛門が、江戸日本橋から一緒に滝台野(その後薬園台)に移住してきた人たちの一人です。お宅の裏の屋敷神のお社には、当時、桐山太右衛門の親か兄弟にあたる桐山三了を刻んだ石碑がありました。年代不詳ですが、明治以前で有ることは確かですので、これまで不明だった「桐山太右衛門」と「桐山三了」が別人であること、「三了」は「三子」ではないことが、他の史料とも付け合わせてみても、確かなものと確信しました。』
(「薬園台130222(その他社会学)-爺野徒歩徒歩・・・」より)
(2) 『桐山三了という人物が、浜御殿のさとうきびを移植して、世に広めるように幕府から言い渡されたのだが、三了は、植え付ける土地を持っていないので、太右衛門が持っている下総国の薬園に植え付けることになった。・・・
桐山太右衛門らの墓を桐山三了が建立した。』
(「内外の伝統的な砂糖製造法(5)|農畜産業振興機構」より)
★ 今後研究したい資料は、日本博物誌年表 何故ならば、次の記述が気になるから。
『參三月十六日、丹羽正伯,植村左平次,飯田道调.本賀徳連,夏井松玄,桐山太右衛門、 江戸を出立、山城.丹波.但馬.丹後.若抉.飛驊.近江で採薬して、五月二十六日に帰府する(植村御用書留、月堂見聞集)。女桐山太右衛門(三了)は薬種商。のち、正伯とともに、 ...』
(「日本博物誌年表-磯野直秀-Googleブックス」より)
◆ 買った豆腐/おぼろ豆腐と焼どうふ 、おまけとして頂戴した油揚げ
おぼろ豆腐は、そのままと、ポン酢と、醤油で食べ比べた。どれも、なかなか美味しい。
焼どうふは、すき焼き風にして食べた。これも旨い。鍋には、焼き豆腐があう。