深川永代散歩

或る名所旧跡探索グループで、夏季研修(座学)に先駆けて、ミニツアーを実施した。
深川地区の本命コースではない。研修仲間ならではのマイナーコースである。
前向きの表現をすると、マニアックなコースといえる。

永代界隈ミニ散策

門前仲町の交差点を少し西に行くと、
一の鳥居跡
一の鳥居

伊能忠敬が50歳で江戸に出て、住んだ処。ここから高橋至時の浅草天文台に通うこととなる。
深川黒江町にあった伊能忠敬旧居跡
伊能忠敬旧居跡

万徳院/伊勢ノ海・佐渡ヶ嶽・式守伊之助などの墓があるので、相撲寺とも呼ばれる。
相撲寺(万徳院)

現物は、今青森県三沢の星野リゾート・青森屋に存在する。
渋沢栄一宅跡/日本資本主義の父と言われる。バックのビルは澁澤シティプレイス永代である。
渋沢栄一宅跡

佐久間象山砲術塾跡/左後方のビルあたりに、信濃松代藩真田家の下屋敷があった。
佐久間象山砲術塾跡

左の東京市電(と明治の地図)から推測すると、左右の道は永代通りか?

黒江町夕河岸跡
夕河岸は永代通り?

※ 東京市電の変遷と、この写真の撮影時期(大正10年説がある)との関係が微妙であり、解釈には検討の余地がある。

※※ ガイドリーダーのⅠさんから、この点について貴重な情報を戴いた。

「下町文化No.240 2008.1.15」 江東区教育委員会発行 P7

『黒江町の電車停留場の南側歩道に毎日午過ぎから魚の小売市が立つ。・・・
 写真左側の永代通りには市電が走りその通り沿いに板を敷いて出店が並んでいる様子がわかります。手前の店を見る限りでは、板の上にザルを置き、その上に魚が2尾筒載せてあります。・・・』

黒江町夕河岸跡/上記資料に基づき写真の解釈を修正したもの
夕河岸・修正版

伊那忠治・忠重の墓(開基の墓)&正源寺
伊那忠治・忠重の墓&正源寺

◆ 深川猟師町

深川猟師町の起源は「佃島」にあり

寛永6(1629)年
熊井、相川などの漁師8名が幕府に願い出て、八つの町を作った。』

深川猟師町跡
深川猟師町跡

◆ 元木場

『10年余りでさらに大きな変化にさらされた。』
(「資料館ノート第70号 江東の掘割・川② 元木場の掘割」江東区深川江戸資料館より)
寛永18(1641)年京橋桶町の大火で、日本橋本材木町など江戸市中35ケ町の材木商が深川の木置場に移ってきた。

深川総画図(深川江戸資料館蔵) に記入
元木場へ移転

◆ 「蔵の町」

明暦の大火で、深川は江戸の流通の拠点として位置づけられ、蔵の町となった。木場は、猿江を経由して現在の木場公園方面に移転した。』 (同上)
元禄14(1701)年のことである。
※ ブラタモリでは、佐賀町辺りを現在も物流の拠点であると、報じていたように記憶する。

本所深川絵図(「江戸切絵図」人文社) に記入
木場へ移転

◆ 深川七場所

なお、深川猟師町の南端辺りは、深川七岡場所の一つ、「新地」ができたところでもある。

「吾妻源氏 辰美の秋月」国貞画 から
辰巳の秋月(新地?)


越中島は、旗本・榊原越中守が拝領したことからその名がある。
幕末、越中島教練場ができ、維新後も練兵場として使われた。
明治天皇天覧の時、今の練兵衛橋の処で、日本国歌「君が代」が演奏されたと、されている。

練兵衛橋は今は私企業が所有、一般人は隅田川側の連絡橋を渡る。
練兵衛橋&越中島連絡橋
練兵衛橋&越中島連絡橋

越中島公園から中央大橋を望む
越中島公園から中央大橋を望む

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