陸羽西線・陸羽東線

庄内の旅 ( 帰路 )
10月某日、3泊4日の短く慌しい旅を終らせるべく帰路についた。


● ‘だだっ子

鶴岡土産に‘だだっ子’をもとめた。
だだちゃ豆本来の豊かな風味を生かすため、豆をやや粗くすりつぶし、なめらかな口溶けの白あんと合わせました。しっとりとしただだちゃ豆あんと和三盆糖を加えたまんじゅう皮は、柔らかく上品に焼き上げています。』(「山形・清川屋」より)
だだっ子


庄内の旅の帰路は、鶴岡→余目→新庄→鳴子温泉→古川→東京ルートを選んだ。急ぐ帰りではない。車窓からの紅葉を眺めたいからである。
余目・新庄間を陸羽西線(奥の細道・最上川ライン)、新庄・小牛田間を陸羽東線(奥の細道・湯けむりライン)と呼ぶ。羽越本線との連絡が非常に悪い。

◆ 余目
連絡待ちが2時間弱。駅前は閑散としていて情緒が無い。おまけに食事処はラーメン屋さんしかない。
時間をもてあましたので、片道徒歩15分ほどの距離にある‘鯉川’酒造を見に行った。予め電話をしたが、休日で見学の許可は得られない。「夏子の酒」で有名になった酒蔵だが、外から眺める限りにおいてはどこにでもある田舎の酒蔵の感がする。しかしその辺りは街の中心部なのかそこそこの家が集合していて駅前より風情がある。

‘だだっ子’の販売会社:清川屋は鯉川とタイアップして‘亀の尾原酒’を作り上げた。『原酒にふさわしい水とは、どこの水なのか?山形県内を探しあぐね、ついにたどり着いたのは 明治維新の志士・清河八郎 の生まれ故郷であり、「清川屋」の社名の由来 にもなった、山形県庄内町(旧立川町)清川地区の地下25m以上もの井戸水(月山の豊かな伏流水)。』(清川屋HPより)
気になっていた清川屋と藤沢周平作品の清河八郎がなんとなく結びついた。清河八郎の実家も確か酒造業をしていたと思う。

鯉川

◆ 最上川沿いの紅葉
最上川下りの屋形船が見えた。
山は枯れたような紅葉。かつて、十和田・八幡平、八甲田等のスケールの大きい紅葉を見慣れているので感激は少ない。既に美しいものを見たものは不幸かもしれない。
最上川沿いの紅葉

◆ 車窓から見た鳴子峡
近頃のJRは親切だ。トンネルとトンネルの間のほんの少しの距離を超スローに進んでくれた。こじんまりした紅葉が眺められた。今年は少し遅れているので見頃なのだろう。(この日は10月最後の日曜日)
鳴子峡

◆ 鳴子温泉
鳴子温泉で時間待ちの間に早稲田桟敷湯に入った。こじんまりしているが面白い温泉だ。

早稲田桟敷

頭のてっぺんからつま先まで汗と汚れを洗い落とし、肌着を全て着替えて、さっぱりとした娑婆の人に戻った。あとは古川で新幹線に乗り換えるのみ。短くも充実感のある旅はほぼ終わった。

☆ 初めて観るもの・食べるもの…。すべて新鮮、すべて感動。やっぱり旅はいいなあ~

羽黒山参拝

庄内の旅(その2:鶴岡、G:羽黒山


◆ 祓川(はらいがわ)
『随身門を抜け、石段中唯一の下り坂の継子坂を下ると、祓川に掛かる赤い神橋が見えてくる。清流は月山に源流を発し、むかし出羽三山に参拝する人々は全てこの川で身を清めたものだった。…』(鶴岡市羽黒町パンフレット「出羽三山」より)
今も清い流れであり、時間があれば禊をしたいという衝動に駆られる。昨日飲んだ‘竹の露’の水も源流は同じか。
祓川

◆ 祓川神橋と須賀の滝
須賀の滝

◆ 国宝・五重塔 (平安時代 平将門の創建と伝えられる)
五重塔

◆ 一の坂
2446段の表参道石段を登りはじめる。石段を登る時、息が乱れないのは日頃のエアロビックス・パワーヨガのお陰と感謝した。
一の坂

◆ 二の坂茶屋からの眺望
搗き立てのお餅は、上品な甘さの餡ときな粉がまぶされていて美味しかった。
二の坂茶屋

◆ 鏡池からみた三神合祭殿
三神とは、言わずもがなの羽黒山・月山・湯殿山。
三神合祭殿

◆ 開祖峰子皇子の墓
『開山は約1,400年前、第32代崇峻天皇の皇子である蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれ、羽黒山に参拝し、羽黒権現を感得、山頂に祠を創建したのが始まりとされている。…以降、羽黒派古修験道として全国に広がったのである。』 (前掲「出羽三山」より)
開祖の墓

 『崇峻天皇5年11月13日寝殿に於て蘇我馬子の家来、帰化人東漢駒に背中より一突きに刺されて殺された。ときに蜂子皇子32オ。この皇子が居る限り馬子は枕を高くして眠る事は出来ない。蜂子皇子の命は風前の灯である。父天皇の葬儀も何も考える暇なく、その夜の中に従者3、4名と馬で飛島を脱出した。(峰子皇子伝記)』 (「月舘町伝承民話集」より)

菅実秀と菅家庭園

庄内の旅(その2:鶴岡、F:菅実秀・菅家庭園

◆ 菅実秀


書き辛いということで、私が今難物だと思っているのは、幕末の庄内藩の動きを指導した菅さんという人のことである。会津藩と並んで最後まで朝敵とされたこの私の郷里の幕末史は、ぜひ一度とりあげたい素材なのだが、その中心人物だった菅さんという人は、いまだに評価が分かれているところがあって、この人を書くには相当の覚悟が必要のようである。』(「書きにくい事実」より)
奥さんもこのことについて、話してくれた。

清川八郎、雲井龍雄を見事に描いた周平の、心残りの人物であったろう。

◆ 菅家庭園
菅家庭園

『庭の樹齢350年の老赤松は一部黄葉し、この時期落葉するんです。落葉した松葉はそのまま庭の苔の保護においておく。1mほど積もった雪が融けたら、松葉を集めて茗荷畑のマルチングに使うと、柔らかい芽が収穫できるのですよ。』と、奥さんが話してくれた。
菅家庭園・老松

また、西郷南州翁との交わりや松ケ岡開墾(「風の果て」の太蔵が原のモデル)とのかかわりについて話が出た。
しかし残念ながら、松ケ岡開墾場行のバスは10月に廃線となって、アクセスがこの上なく不便となったので今回は計画変更することとする。

‘蝉しぐれ’の舞台探索

庄内の旅(その2:鶴岡E:蝉しぐれ


今回の主目的は、藤沢周平の小説の舞台を旅することであり、なかんずく、蝉しぐれの舞台を探索することである。

参考資料
○? 『鶴岡市街図』(「藤沢周平 心の風景」新潮社P78~79より)
○? 『海坂藩・城下図』井上ひさし作成(「同上」P74~75より)
△? 『江戸時代の鶴ケ岡城』『現在の鶴ケ岡城』(「」P192,P193より)
△? 『「蝉しぐれ」の海坂藩地図』(「周平と庄内」P95より)
 ? 『海坂城下町図』伊藤士郎作成(「」Px~xiより)
○? 『鶴ケ岡城下御絵図』(「藤沢周平 心の風景」新潮社P59より)
 ? 『鶴岡御城下絵図』(「藤沢周平の世界」P104~105より)


それでは、蝉しぐれのストーリーに添って、定説と私説を交えながら推測した舞台をたどり、写真に収めてみることとする。

◆ 朝の蛇
普請組組屋敷裏・小川大道堰
城下の西はずれ:大山街道口木戸と大督寺の間
巾六尺弱の川:大道堰(大山街道口塩硝蔵跡・羽前絹練(株)辺りから南に遡る小川)
普請組組屋敷/小川

◆ 夜祭り
熊野神社日枝・日枝神社(「藤沢周平 心の風景」P87より)
熊野神社/夜祭り

私説神明町にある熊野神社山王町にある日枝神社
位置ならびに規模からいって、日枝の日枝神社より山王町の日枝神社の方が海坂藩の夏祭りとしてはふさわしいと思う。(井上ひさし氏の城下図とも異なる見解)
私説/熊野神社

◆ 嵐
鴨の曲り鴨の曲り
今も鴨が飛来し数十羽泳いでいた。
鴨の曲り

◆ 蟻のごとく
龍興寺龍覚寺
龍興寺

<参考>
龍興寺⇒安国寺
『丁卯の大獄で酒井右京が切腹させられたのが安国寺本堂内右陣。その介錯人の名前が新聞掲載時には助左衛門の介錯人と同名であった。ただし牧家からの距離が必要であったので龍興寺を城の北はずれとする必要があった。』(「藤沢周平 心の風景」P86より)
安国寺

◆ 落葉の音
葺屋町私説三光町
(伊藤士郎氏の海坂城下町図とは見解を異にする)
『城下の東の端にあたるそのあたりの町は、いかにも場末…』
葺屋町

◆ 染川町
染川町旧七日町
(この位置は、井上ひさし作成地図と異なる解釈を取る)
昭和30年代まで遊郭があった位置は、旧七日町(現・本町二丁目)。三屋清左衛門残日録の花房町も同様(この点は鶴岡市観光連盟の案内板と同じ)
染川町

◆ 行く水
欅御殿洞春院
欅御殿

◆ 逆転
長平橋・五間川筬橋・内川
金井村黄金村からの距離などを考えると、坂本橋より上流の橋の方が矛盾しないが…)
筬橋・五間川

あやめ橋三雪橋
あやめ橋

◆ 蝉しぐれ
箕浦湯野浜
文四郎とお福の最後のシーン。箕浦の三国屋。湯野浜温泉は残念ながら今回時間が取れなかった。
映画‘蝉しぐれ’での最終章のロケ地は丙申堂の小座敷。(余談だが、屋根は石置杉皮葺)
箕浦の三国屋

★ 古地図を眺め、育った原風景を思いうかべて、よくここまで蝉しぐれが構築されたと思う。今回訪ねた風景から、私にはいくら想像を逞しくしても、蝉しぐれを構想できない。さすがに藤沢周平は小説巧者である。

ところで、池波正太郎も小説の中で右と左を良く間違えている、と。それ以上に、藤沢周平は空間認識にラフなところが沢山あり井上ひさしの指摘するところとなるが、そういうこまごまとしたところを修正しないところがえらいと私は思う。

 
☆ 『「蝉しぐれ」は…苦痛で苦痛で…書けども書けども小説が面白くならない…こういうときは無理な工夫なんかしても仕方がないので、私はつとめて主人公の動きにしたがい、丹念ということだけを心がけて書きつづけた。早く終わってほっとしたいと思っているのに、こういうときに限って小説はなかなか終わらず…ところが、である。一冊の本になってみると「蝉しぐれ」は人がそう言い、私自身もそう思うような少しは読みごたえのある小説になっていたのである。これは大変意外なことだった。…』(「新聞小説と私」より)




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海坂藩の料理

庄内の旅(その2:鶴岡、D:麦きりと海坂膳

● 昼の食事より
三昧庵/致道博物館内
海坂三昧B(麦きり・かすべ・胡麻豆腐・漬物)」1,000円

『今の「うどん」に近いものは「麦きり」と呼ばれたもので、関西を中心に、主に上方で食べられていた。』(「江戸庶民の食風景 江戸の台所」人文社P82より)

海坂三昧/麦きり

● 夜の食事より
【当初案】
推薦1 九兵衛旅館(鶴岡案内人:佐野さん一押し)
     予約満員のため断られる。
推薦2 日本料理 紅屋(丙申堂:管理人)
推薦3 滝太郎(丙申堂でアンケート調査をしていた市職員)



◆ 旅館坂本屋/三瀬(さんぜ;漁師町)

『松竹映画「たそがれ清兵衛」の大ヒットが記憶に新しい鶴岡市出身の直木賞作家・藤沢周平さんの作品には、庄内の食べ物を取り上げているものが多く、坂本屋のある三瀬も、「三年目」という作品などに登場します。町奉行・佐伯熊太が産地を講釈しながら食べた赤カブ、三屋清左衛門が好んで食べた野趣あふれるシラガニなど、藤沢作品をモチーフに作られた「海坂膳」(3,000円)が人気です。
また、約180年前、庄内藩の10代目藩主 酒井忠器が、総勢420数人を引き連れ、領内を巡幸した際に三瀬に立ち寄り、坂本屋を本陣として食した昼食を再現した「献上膳」(6,000円)も名物膳の1つ。』 (「旬まるかじりおいしい庄内探検隊 No.2」より)



  海坂膳+おまかせ

クチボソ(マガレイ)の焼きものハタハタの湯上げ・田楽カラゲ(エイの干物を水で戻して甘辛く煮付けたもの)、赤蕪・茗荷の漬物などなど…海坂藩もので登場する料理の数々。

海坂膳+おまかせ

一つ一つ見ていくと、まず、もってのほか(もって菊)など
もって菊

赤蕪茗荷の漬物・カラゲ・豆腐あんかけ
カラゲ・豆腐あんかけ

クチボソカレイの焼きもの・鯛の刺身など
クチボソカレイ

ハタハタの田楽・湯引きなど(ハタハタはそれぞれ雄雌一匹ずつ、ブリコも白子も新鮮でおいしい)
湯引きは骨抜きしてあるが、田楽は鮎の場合と同じように背骨を抜いて食べる。
ハタハタ

(なお、藤沢の作品に出てくる料理については、「藤沢周平 心の風景」新潮社P26~27およびP56~57をご覧になるともっと明瞭な写真が紹介されている。)

最後に、渡り蟹、デザート(無花果のワイン漬け)。
蟹・イチジク

酒は、「大山」 加藤嘉八郎酒造。麹の香りが残るこの酒と料理は良く合っている。
以上〆て 5,512円也(信じられますか?)


★ 庄内料理がこんなに繊細かつ上品なものであるとは知らなかった。京風の影響を強く受けているのか。感激だ。
思えば、昭和40年代の初頭秋田県某市に新入社員として赴任した時、ハタハタはトロ箱一杯70円也で、独身寮では一日三食ハタハタ尽くし(しょっつる・焼きものなど)で関西育ちの味覚を持つ我々にはとても食えたものではなかったが、今回のこれは何だろう、似ても似つかぬ美味しい料理に仕上がっていた。
真冬の‘寒鱈・どんがら汁’、春の‘孟宗汁’も食べてみたい。

『 「食べ物から庄内が見える」をモットーに藤沢文学、 古文書からの料理を。 』(旅館坂本屋HPより)
ご主人自ら研究熱心な料理人であり、藤沢周平ファンに海坂膳はお奨めだ。
また‘カラゲ’について薀蓄を傾けていた。近日‘カラゲ論’が出るそうなので期待したい。

☆ 『海坂の食をもとめて』 杉山透 (「藤沢周平のすべて」文芸春秋P176~184)に、出てくる食べ物と料理法について教示しているのは、

石塚亮坂本屋の主人その人であることを付記します。



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藤沢周平ゆかりの地

京都の紅葉シリーズを挿入しましたが、庄内の旅シリーズを再開します。
クライマックスは、次回以降の海坂藩の料理、‘蝉しぐれ’の舞台探索です。


庄内の旅(その2:鶴岡、C藤沢周平ゆかりの地/高坂、湯田川温泉)


● 高坂 (たかさか)

『1927年12月26日、山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生れる。父小菅繁蔵、母たきゑの第三子(きょうだいは順に繁美、このゑ、久治、留治、てつ子、繁治)。実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業にかかわり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになる。郷里庄内と並んでは、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素である。』(「ウィキペディア(Wikipedia)」より)

藤沢周平生誕の地記念碑
周平生誕の地

黄金小学校
小菅留治(藤沢周平)が通った小学校。校庭に相撲の土俵がある。
黄金小学校


● 湯田川温泉

湯田川温泉は、白鷺の湯と呼ばれる。ちなみに、湯野浜温泉(「蝉しぐれ」では蓑浦、「風の果て」では松原)はの湯、温海温泉(鳥越の温泉)はの湯。

藤沢周平先生記念碑
教員として旧湯田川中学校へ赴任。教え子達が記念碑を作った。
周平先生記念碑

梅林から見た湯田川温泉
梅林から見た湯田川温泉

九兵衛(くへい)旅館入り口と共同浴場・田の湯
旅館の女将・大滝澄子さんは小菅留治先生の湯田川中学時代の教え子。
後年、九兵衛旅館は周平の定宿となった。
今日では、13の部屋のうち、1~2組が周平ファンであるという。
九兵衛旅館

周平コーナー
周平コーナー

九兵衛旅館庭
庭には、シュウカイドウ・シュウメイギク・ミズヒキソウなどが咲いていた。
庭



海坂藩の面影

庄内の旅(その2:鶴岡、B海坂藩の面影


海坂藩ものの作品について薀蓄を傾けたものは多い。
また、藤沢周平作品リストなどを参照してください。


◆ 「海坂藩の面影」 (鶴岡市観光物産課作成、第3回街歩きマップコンテスト日本観光協会賞受賞パンフレットより) に散策絵図があるように、市内には藤沢周平ゆかりの地 案内看板が18箇所ばかり立っている。

?~?のうち、???「蝉しぐれ」関連および?「ただ一撃」民田、?「紅の記憶」井岡寺、?「龍を見た男」善宝寺を除く 案内看板の地の「作品名」作品中の場所現設置場所と写真を紹介する。
結構歩き甲斐のあるエリアであった。


? 「臍曲がり新左」 伊波山/金峯山
臍曲がり新左

? 「三月の鮠」 旧黄金村/高坂 
三月の鮠

? 「花のあと」 湯治場/湯田川温泉
花のあと

? 「ただ一撃」 小真木野/小真木(日枝)
小真木野

? 「又蔵の火」 総穏寺/総穏寺
又蔵の火

? 「義民が駆ける」 大督寺/大督寺
義民が駆ける

? 「三屋清左衛門残日録」 花房町/本町二丁目(七日町)
残日録

? 「義民が駆ける」 藩校致道館/旧藩校致道館
藩校致道館

? 「花のあと」 鶴ケ岡城/鶴岡公園
鶴ケ岡城

? 「三の丸広場下城どき」 相生町/家中新町
相生町

? 「秘太刀馬の骨」 千鳥橋/大泉橋
馬の骨

? 「凶刃用心棒日月抄」 般若寺/般若寺
用心棒日月抄

なお、「蝉しぐれ」については、別立ての探索を行った。後日報告する。

金峯山登山

庄内の旅(その2:鶴岡金峯山


早朝酒田から鶴岡に移動。小雨が降っている。天気男の運も鈍ったかなと感じつつ、宿泊予定のホテルに余分の荷物を預ける。寒い。
雨具類をしっかり詰めた小型のリュックを背に、登山口までバスで行く。

『金峯山に雪が三度降ると、鶴岡は根雪になる。』 私1人しか乗っていないバスの道中、運転手が教えてくれた。去年は12月に、はや根雪となり、歴史的な大雪に見舞われた。ついこの前のことのようだ。

登山口で樹齢400年とやらの大藤を見上げてから、入口の諸社寺に詣でる。

◆ 金峯の大藤
金峰の大藤

◆ 金峯山神社/登山口
金峯山神社/登山口

◆ 禁酒の壷?
高血圧症・高脂血症・高尿酸血症・肥満など生活習慣病の諸悪の根源とされる飲酒。節酒した途端に酒が弱くなっている身には禁酒の誓いは無用。パス…。
禁酒の壷

◆ 青龍寺
青龍寺

◆ 旧参道/古碑のみち

地中に埋没し、川の中に落ちていたこれらの碑を丹念に引き起こし、苔をはらい、元の位置に建て直した上に、その由来を調査するという困難な作業を行ったのは、この本の著者荘司重司氏である。荘司氏がこの作業で立て直した碑の数は一千五十二基、ついやした年月は三年余である。…』(『藤沢周平 心の風景」 新潮社 P34より)
古碑のみち

● 桜谷神社/ロケ地:隠し剣 鬼の爪
桜谷神社

◆ 山門
山門

◆ 金峯山中宮
中宮

◆ 金峯山奥宮/山頂

『金峯山は古くは清浄な修験の山であり、その神秘を慕い、またすがすがしい山気と庄内を一望できる眺望を楽しむために、近郷近在ことに城下鶴岡から多数の参詣人、行楽客が登山したものであるらしい。…』(「藤沢周平 心の風景」P30 より)
奥宮


◆ 山頂からの眺望

旧参道ならびに、中宮より上では今日は誰一人出会わない。途中天気が良くなり、着ている物を一枚ずつ脱ぐも汗でビショびしょ、Tシャツ一枚となってしまった。それも脱いでタオルで上半身を拭く。晴れ男のジンクス崩れず。満足なり。

生憎、正面に見えるはずの鳥海山は霞んで見えないのが残念だが、昨日と今日酒田・鶴岡間で列車の車窓から眺めたことで満足しておこう。
なお、途中八景台というところで、昔は月山が良く見えたそうだが、今は木が繁茂して母狩山山頂しか眺められなかった。

チョコを食べ・お茶を飲み、眺望と2万5千分の一の地図と「藤沢周平 心の風景」や観光地図を見ながら、鶴岡に当てたここ2日間の行動計画を確認・修正する。

赤川の支流・内川の両岸と、内川と青龍寺川に挟まれた区域が海坂藩探索の中心となる。

展望



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相馬樓と酒田舞娘

庄内の旅(その1:酒田、C:その他

観光レンタサイクル(無料)を5時間半乗りっぱなしで、街を走り回った。
30年前の大火にも拘らず、良く頑張っている街だと思う。


◆ 浄福寺・唐門、海晏寺・三重塔、光丘神社などなど
浄福寺・唐門

◆ 日和山公園、六角灯台、河村瑞賢像など
千石船

◆ 山居倉庫
山居倉庫

◆ 舞娘茶屋 雛蔵畫廊 相馬樓
料亭・相馬屋を復活させたのは、平田牧場グループの代表であり、美術品コレクターである新田嘉一氏である、と。ただそのとき、赤い壁に塗り替えられてしまい、遊郭と錯覚してしまうのはあまり戴けないのだが…。
相馬楼

● 酒田舞娘
『雪のように白い肌、二重まぶたの大きな目は、酒田美人の特徴である。明治26年に来酒した正岡子規は 『はて知らずの記』に、「(酒田の)名物は婦女の肌理細かなる処にありといふ」と記している。』 (「酒田舞娘」より)

『「伝統ある料亭文化を育成すると共に、地域芸能を伝承し諸芸を修め、酒田の斬界の発展及び地域文化の振興を図る」ことを目的に、平成2年(1990)4月、新田嘉一会頭を先頭に酒田経済界の有志を結集して「舞娘さん制度」が創られました。』(同上より)
舞娘

◆ 料亭・香梅咲(かめざき)
相馬楼の並びにあります。
料亭・香梅咲

◆ ‘酒の肴’
料亭・香梅咲の予約をしなかったので、‘割烹・さわぐち’に飛び込んだ。
飛島(とびしま)など近海ものの魚が美味しく、この日のお奨めはひらめとわらさ、甘エビのお刺身。
刺身

焼き魚は、口細カレイ。新鮮な魚が、強火の遠火でじっくりと焼きあがって、しっとりとして旨い。歳とともに、何もしないさっぱりした塩焼きが好きになっていく。
酒は、『秘伝』 菊勇 酒田市黒松。地物にはやはり地酒が合う。これも美味い。
口細カレイ

今日は飛び込みの即席料理、明日は予約を入れて会席料理としよう。

徳尼公と三十六人衆

庄内の旅(その1:酒田B:三十六人衆

「酒田の開祖」徳尼公伝説と三十六人衆 を知った。



『奥州・平泉滅亡の際、藤原秀衡の妹・徳の前(あるいは秀衡の後室泉の方)を守って庄内に入った遺臣三十六騎たちが袖の浦の地侍となり、船問屋を家業としながら町政を行った。最上川南岸の地「向こう酒田」の起源。その後北岸の「当酒田」に移転して、子孫は「酒田三十六人衆」を組織して町政と経済の中心となり、幕末まで自衛の伝統と自由自治の精神を受け継いできた。』(「酒田道先案内本」酒田市観光物産課・企画より)

『三十六人衆としては、鐙屋(あぶみや)をはじめ二木家や本間家、西野家、後藤家、根上家、上林(かんばやし)家などが知られるが、このうち鐙屋は、井原西鶴の『日本永代蔵』に「北の国一番の米の買入、惣左衛門という名をしらざるはなし」と紹介される豪商であった。これは寛文12年(1672)に、河村瑞賢(ずいけん)によって西廻り航路が整備されたことが背景にあり、江戸時代中期の回船問屋は本町通りを中心に97軒、蔵には200万両分の物資が詰まっていたという。』(「酒田商工会議所100年の軌跡」より)


庄内藩が豊かであったのは、民営が保たれ、藩は商人からの莫大な富で財政を賄ったためだったのか…。東の酒田、西の堺といわれる所以。

☆やはり、こうなると海坂藩シチュエーション(舞台)は庄内藩南部・鶴岡、そして登場人物・動機・プロット(筋書き)は隣の貧乏藩・米沢藩でないと、成立しづらい。

☆また、海坂藩≒庄内藩南部(鶴岡)
 ∴海坂藩7万石≒庄内藩14万7千石×1/2  もよく納得いく。


◆ 徳尼公を祀った泉流寺
泉流寺

彼らのうち幕末まで家を保ったのは10家でそのうちのひとつが鐙屋であると。(旧鐙屋の案内人による)
なお、本間家は遅れること80年ほどして越前から来酒し廻船問屋の仲間入りをしたが、途中で金貸業等に業態変容を図り、酒井の殿様を凌ぐ(本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に)とまで唄われる存在となった。

◆ 旧鐙屋
旧鐙屋・座敷

『西鶴には、料理文化の浸透に関する興味深い小説がある。『日本永代蔵』の「舟人馬かた鐙屋の庭」では、出羽の国酒田の船問屋・鐙屋の繁盛を描いている。北国一の大問屋として栄えた鐙屋には、各地から多くの客が集まり、その食事に大きな努力を惜しまなかったことから、高い評価を得たと賞賛している。江戸・京都・大坂といった大都市のみならず、地方都市でも料理人を抱えて、料理が楽しまれていたことが窺がわれる。』(「日本料理の社会史 和食と日本文化」原田信男、小学館P113より)


◆ 鐙屋の屋根
石が乗せてある。これは石置杉皮葺といい当時の典型的な町屋形式。
酒田にはここ一軒だけとなったが、鶴岡にも残っている、と。
鐙屋の屋根

本間家

今回の旅の主目的は、藤沢周平の小説の舞台を見て歩くことである。


海坂藩ものは、『地名や地形、風俗習慣が庄内藩、領内の制度や藩の執政のありようは米沢藩と似通っている』(「続 藤沢周平と庄内-海坂藩の人と風-」山形新聞社編、ダイヤモンド社より)

私が見て廻ろうとしている舞台は庄内藩南部・武士の町・鶴岡。
しかし、庄内藩北部の商人の町・酒田を比較上、先んじて見ておくこととした。


庄内の旅(その1:酒田A:本間家)は、まず本間家の関連を見ることとする。


◆ 本間家旧本邸
『本間家旧本邸は、本間家三代光丘が、幕府の巡見使一行を迎えるための本陣宿として明和五年(1768)に新築し庄内藩主酒井家に献上した、二千石格式の長屋門構えの武家屋敷です。
 巡見使一行が江戸に戻ると屋敷を酒井家から拝領し、商家造りの方で昭和二十年の春まで住んでいました。
 桟瓦葺平屋書院造りで、武家屋敷と商家造りが一体となっている建築様式は、全国的にも珍しいものです。』(「本間家旧本邸のHP」より)

本間家旧本邸

◆ 本間美術館・本館 
本間美術館・本館

◆ 清遠閣・玉石 
玉石

◆ 鶴舞園・石組
  佐渡の赤石など、全国の石。上方への廻船の帰りに船の安定を図るために船底にバラストとして銘石を積んで来た。これは加賀の北前船の船主屋敷でも見られ当時一般的に行われていたと思われる。

全国の銘石



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プロフィール

yogaz

Author:yogaz
飯山満通信へようこそ!
満73歳になりました。予定寿命まで後7年です。ただいま終活中です。当面75歳までは、ボランティアガイドと生涯学習・介護予防のお手伝いを続けたいと思います。
なお、2006年6月14日から始めた飯山満通信は、2013年12月14日、ブログを引っ越しました。Dtiblogのブログサービスが終了したためです。

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