絵唐津木賊文茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ 第97作

絵唐津木賊文茶碗写し

『(本歌は)絵唐津の名碗としてつとに名高い作品である。浅く開いた形の多い唐津の茶碗のなかでは、背の高い見込みの深い茶碗で、すんなりした形には気品さえ感じられる。少し外へ開いた口縁の下が一段浅くさらえられているのも、この形をよく引き締めているようだ。胴の両面に木賊の絵が付けられているが、図のまとまりもよく、絵の量もほどよい。長石を含んだ灰釉が絵の調子を柔らげ、裾のあたりに面白い流れ跡を見せる。甕屋の谷窯の早い時期の作例であろう。」(「日本陶磁全集11 唐津」中央公論社 fig.46より)

※ 私が作るものは自分の体型をうつしてか、背の低いものができてしまう。この作品も、もう少し背丈がほしかった。


絵唐津木賊文茶碗写し
絵唐津木賊文茶碗写し
正面
正面
高台
高台
お菓子は、赤坂青野の「柚子」
菓子器は、上野焼 鉄彩茶碗写し
柚子 in 唐津茶碗
お菓子断面
『外:白双糖入り上用饅頭 中:柚子餡』
柚子 断面

絵唐津鶴丸文茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ 第96作

絵唐津鶴丸文茶碗  写し


『(本歌は)高台というよりは、高脚のついた呉器風の形の珍しい茶碗で、装飾もなかなか風変わりだ。鳥を円の中に入れた鶴丸文とでもいうような絵を付け、反対側には同様の松丸文を描き、上から濃い長石釉をかぶせている。そのために、線の細かった円の一部はぼやけている。そして口縁部に幅広の鉄釉を塗って皮鯨としたものだが、この黒帯ははなはだ効果的だ。』
(「日本陶磁全集11 唐津」中央公論社 fig.53より)

※ 黒帯の幅が少し広くなった。民窯のような素朴な雰囲気のある茶碗である。


絵唐津鶴丸文茶碗写し
絵唐津鶴丸文茶碗写し
正面
正面
高台
高台
お菓子は、赤坂青野の‘栗'
菓子器は、柳原焼三島写茶碗写し
栗 in 柳原焼三島写茶碗写し
お菓子断面
『上:栗、狐色かけ 外:こし餡 中:栗餡』
栗 断面

奈良三彩碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ 第91作

奈良三彩碗 写し


『(本歌は)奈良時代に、唐三彩を手本にして、わが国で焼造された三彩釉の陶器で、施釉陶器としてはわが国最古のもの。正倉院には三彩が5点…あり、その中の一点の底に「戒堂院聖僧供養盤、天平勝宝七歳七月十□日、東大寺』と墨がきがあることから、これらはその頃の焼造になるものとされている。これはすなわち地上に伝世した焼物としては世界最古のものということになる。この碗はそれと同手のもので、いつのころか正倉院から流出したものと考えられる。』
(「カラーブックス 413) 茶碗のみかた?」保育社 P2より)


奈良三彩碗写し
奈良三彩碗
正面
奈良三彩碗・正面
高台側
高台側
お菓子は、萬年堂の「白蒸し 高麗餅」
「白蒸し 高麗餅」
高麗餅+銀座のはちみつじゅれ
高麗餅+銀座のはちみつじゅれ

彫唐津茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ 第90作

彫唐津茶碗 写し


『(本歌)飯洞甕(はんどうがめがま)という妙な名の窯場が一躍有名になったのは、この窯跡から膚に彫目のある碗片が出土するようになってからである。それまでの唐津の研究では彫唐津などというものがあることすら知られていなかったので、この種の破片の出土は疑念と驚きをもって迎えられたものであった。…』
(「日本陶磁全集11 唐津」中央公論社 fig.59より)


彫唐津茶碗写し
彫唐津
正面
彫唐津・正面
高台
彫唐津・高台
お菓子は、萬年堂の高麗餅

白蒸し 高麗餅 on 飴釉皿
白蒸し 高麗餅 on 飴釉皿
お菓子断面
右が、はちみつじゅれ
白蒸し 高麗餅 断面

織部かにの絵平茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ 第89作

織部 かにの絵 平茶碗 写し


『(本歌) 見込みに描かれた「かに」は朝鮮民画のようであり、また、朝鮮の文字を思わせる縁まわりの象嵌文字。これは元屋敷窯(岐阜県土岐市)の陶祖・加藤景延が、唐津で朝鮮式登り窯をならったとか、美濃地方へ朝鮮陶工が来住したなど、さまざまな伝承があるが、この絵付は、その一つの証にはならないだろうか。とにかく、織部は具象と抽象が混在し、和風、西欧風、朝鮮風、そして中国風とあらゆる要素を包含した、すこぶるバラエティに富む魅力ある焼物である。』
(「カラーブックス 413) 茶碗のみかた?」保育社 P20より)


織部かにの絵平茶碗写し
織部かにの絵平茶碗写し
織部かにの絵平茶碗写し 見込み
『・「かに」は、朝鮮民画のよう
 ・象嵌文字は、朝鮮文字を思わせる』(同上)
※ そう言われれば、そんな感じがする。

織部かにの絵平茶碗写し 見込み
高台
高台
お菓子は、塩瀬総本家の‘色づき’
菓子器は、片口
色づき in 片口
お菓子(色づき)断面
求肥
 中しろ餡 羊羹葉付
菓子断面(色づき)

清水六兵衛 截土容黒耀茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ 第88作

七代清水六兵衛 截土容黒耀茶碗写し


『(本歌は)土は信楽。轆轤で成形した器胎に截り込みを入れて寄せ、容(かたち)作られている。正面には丸い穴の穿ち。付高台も茶溜りも造形に優れる。鉄釉だが鈍色の光沢から「黒耀」と。金属的な風韻に土のしなやかさが生き、独特の雰囲気。』
(「茶碗 平成の百人100碗」日本放送出版協会 P202より)

『「截土容」は、タタラ状の土に截り込みを入れ、噛み合せ、土のしなやかさを生かしつつ用の器の容にしたもの。土との対話を始めた七代は、洗練された風尚な茶碗も作った。』
(同上 P200) とあり、記述に矛盾があるが、習作は轆轤で成形した。


『六代の逝去はまさに青天の霹靂。還暦を前に突如七代となった九兵衛氏は、喜寿を迎えて名跡を子息柾博氏に譲るまで、陶芸は六兵衛彫刻は九兵衛、と使い分けることになる。』(同上)



七代清水六兵衛 截土容黒耀茶碗写し
截土容黒耀茶碗写し
正面
六兵衛茶碗写し 正面
高台
高台
お菓子は、塩瀬総本家の‘鈴虫’
菓子器は、黄瀬戸鉢
鈴虫 in 黄瀬戸鉢
お菓子(鈴虫)断面
黄味しぐれ
 中羊羹
菓子断面(鈴虫)

砧青磁シノギ文茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ 第87作

砧青磁シノギ文茶碗 写し

『(本歌は)青磁の目利きを一に砧、二に天竜寺、三に七官とした。‥砧についてははっきりせず、一説に青磁花生の大名物が砧の形に似ていたからといい、宋時代に竜泉窯でつくられた青磁を指し、最高とされる。
本器は作行端正、釉色滋潤、高台畳付きの鉄足など砧青磁のすぐれた特徴をあわせ持つ。シノギと呼ぶのは、胴にある浮彫りの蓮弁文のことで、仏事を連想するので言いかえたのである。』
(「カラーブックス 369)茶碗のみかた」 保育社 P90より)


砧青磁シノギ文茶碗写し
砧青磁シノギ文茶碗写し
シノギ文茶碗写し 正面
シノギをかける段階で、大分仕上げが雑になってしまった。
半磁器土でなかったので、やすりでの修正も効かなかった。

シノギ文茶碗写し 正面
シノギ文茶碗 高台
シノギ文茶碗 高台
お菓子は、塩瀬総本家の‘小萩餅’
菓子器は、鼠志野四方鉢
小萩餅 in 鼠志野四方鉢
お菓子(小萩餅)断面
ういろ
 中黄味餡
菓子断面(小萩餅)

古曽部焼蕨小禽文釘彫茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ 第86作

古曽部焼蕨小禽文釘彫茶碗写し


『三代五十嵐新平は、三島写、絵高麗写などが得意であったという。この茶碗の形態は、御本茶碗の写しで、それに釘彫りで小鳥と蕨をあらわし、そのうえへ白土で刷毛目風に仕上げたものであるが、その釘彫りに白土がはいって一見象嵌風に見えるのも妙である。また、その釘彫りの絵は、童画のように稚拙でほほえましいもので、茶碗の絵付けとして見事に成功している。』
(「カラーブックス 369) 茶碗のみかた」 保育社 P66より)

古曽部焼(こそべやき)
寛政二年(1790)、京都・清水で製陶技術を習得した五十嵐新平が、攝津国島上郡古曽部村(大阪府高槻市)で開いた登窯。 雅味のある茶陶産地として 「遠州七窯」のひとつといわれているが、遠州没後の開窯。』
(「茶道|茶の湯の楽しみ|茶道用語」より)

※ 古曽部焼は明治末に廃窯となったが、現在寒川義崇によって再興された。15年ほど前に大阪阪急百貨店で義崇の作品を知り、かつ高槻の山奥の義崇窯を見学に行った。義崇氏は大阪美術倶楽部で茶道具と古美術の勉強・修行をしただけあって、非常に格調の高い・端正な作品を作る作家であったのを思い出す。



古曽部焼蕨小禽文釘彫茶碗写し
古曽部焼蕨小禽文釘彫茶碗写し
釘彫茶碗正面
釘彫りで小鳥と蕨を施したが、釘彫り箇所の白土があまりはっきりしない。
もう少し太い釘彫りを施す必要があったようだ。

釘彫茶碗正面
釘彫茶碗高台
釘彫茶碗高台
お菓子は、塩瀬総本家の‘菊’
菓子器は、古赤絵花鳥文図柄写しの茶碗
菊
お菓子(菊)断面
ねり切り
 中こし餡 羊羹葉のせ
菓子断面(菊)

滝口和男 「茶碗 垣根の向こうに」写し

抹茶茶碗もどきシリーズ第84作

滝口和男 「茶碗 垣根の向こうに」
                              色釉 写し

『基本は信楽土6種類の土。調味料を合わせるように調合し、手捻りに。鉄で模様を描き、灰釉を掛けて本焼後に金彩。高台と茶溜りが3つずつ。口作りは自然のままで正面はない。が、掌への納まりがよく、心底楽しめる。』
(「茶碗 平成の百人100碗」日本放送出版協会 P206より)

『一個の茶碗のためだけに土をブレンドし、釉を作る。だから再現ができないのです。再現性は全く無視していますから。技法的に同じものはできても、雰囲気は異なる。結局、一期一会でそのときの雰囲気を作っている。それが自分にとっては一番大きいでしょうね』(同上 P204)

※ 『高台と茶溜りが3つずつ』・・・?とても変わった茶碗だ。作り方もわからないが、勝手に想像して習作してみた。

※※ 滝口和男の有名な“無題シリーズ”は、こちら



滝口和男茶碗写し
滝口和男茶碗写し
正面
正面
高台
高台
お菓子は、とらやの下染
菓子器は、高取掛け分け平茶碗
下染 in 高取掛け分け平茶碗
下染 断面

『下染とは染色用語で、本染をする前にほかの色に染めることをいいますが、菓銘では本格的に紅葉する以前の葉にたとえているのでしょう。色付きはじめた一葉の紅葉を琥珀羹で表わしました。東京・京都地区限定のお菓子です。
琥珀
製 白餡入
初出年:文政12年 (1829)] 』
(「とらやの和菓子 季節のお菓子 -生菓子|株式会社 虎屋」より)
下染 断面



各務周海・黄瀬戸茶碗習作

抹茶茶碗もどきシリーズ第78作

各務周海・黄瀬戸茶碗/習作

『(本歌は)
 強烈な穴窯ならではの滋潤味のある油揚肌、胆礬も風雅に流れる。胴紐の箆目も口作りにもためらいがなく、姿は生気に溢れて力感がある。見込みには渦の茶溜り。腰に指痕。高台辺りは土見せで、畳付に輪ドチ目の跡。』
(「茶碗 平成の百人100碗」日本放送出版会 P82より)

各務周海先生は化学的な調合を好まない。栗皮灰を釉薬として使って、効率の悪い穴窯で焼成し、序冷によってアヤメ手の名品と遜色ない黄金の黄瀬戸を再現し、今日、陶芸界衆目の的である。…
桃山時代わずかしか焼成されなかった三拍子揃った油揚手の黄瀬戸の小さな陶片を、美濃山中の窯下窯で見つけた周海先生は、その美しさに感動されたことで難関の油揚手に挑まれる決意をした。…
 唐九郎や嶺男、そして魯山人ら多くの陶芸家が挑みながら、納得のいく作品が少なかった油揚手の黄瀬戸を周海先生の執念で焼き上げたのだ。』
(「ほんものを見分ける 二 「黄瀬戸」‥‥黒田草臣 四方山話」より)

※ 黒田草臣さんがそう言うのだから、習作が難しいのは当然だった。少なくとも黄瀬戸に関しては、唐九朗や魯山人の上を行く人だったのだ。


各務周海・黄瀬戸茶碗/習作
各務周海・黄瀬戸
正面

※ 油揚肌:釉薬違い、窯違い(電気窯)で旨く出なかった。
  胆礬:十分付けたので、裏側に緑色が貫けることは貫けたが。
  胴紐の箆目、口作り:作為が強すぎて下品となった。

正面
高台側
高台
お菓子は、岡埜栄泉の緑陰

お菓子断面
緑陰・断面

安南蜻蛉文写し・茶碗

抹茶茶碗もどきシリーズ第77作

安南蜻蛉文写し・茶碗

安南絞り手
16,7世紀中国の染付を模倣して安南(ベトナム)で作られたといわれる。呉須は黒ずんだ文様を簡略したもの。絞り手は釉に灰分が多いため呉須が釉とともに流れて、文様がぼやけている。室町末期から江戸初期にかけて安南交易でもたらされた。』
(「決定版お茶の心 茶碗」家庭画報編 世界文化社P31より)


安南蜻蛉(とんぼ)文茶碗写し
安南蜻蛉文茶碗写し
正面
正面
高台
高台
お菓子は、御菓子処さゝまの‘青楓’
菓子器は、総織部皿
青楓 on  総織部皿
お菓子断面
『小豆の漉し餡を練切餡で包み、型で抜いた物です。
夏の日に輝く青い楓の葉を表現しています。』(「御菓子処さゝま」より)
青楓断面




春日山窯 色絵草花文呉須赤絵写習作・茶碗

抹茶茶碗もどきシリーズ第76作

『古九谷廃窯から約100年をへた文化4年(1807)、加賀藩は京都から名工・青木木米を招き、金沢の卯辰山山麓に春日山窯を開く。』
(「再興九谷-九谷焼の変遷|九谷焼をめぐるとっておきの旅」より)


◆ 上絵付け習作
春日山窯
/色絵草花文呉須赤絵写鉢から、草花(牡丹)文を習作し、白磁茶碗に施してみた。

色絵草花文呉須赤絵写/習作・茶碗

『(図柄の本歌は)金沢地方の再興九谷
春日山窯 色絵草花文呉須赤絵写鉢:
春日山窯でよくみられる呉須赤絵写の作風により、見込みに岩と草花文を、内側面には双魚や双兎・斜格子などを描いています。』
(「やきもの名鑑[4]色絵磁器」講談社 P148より)


赤絵呉須写鉢から、図柄(牡丹文)を習作した茶碗
牡丹文・赤絵呉須茶碗
正面
正面
高台
高台
お菓子は、御菓子処さゝまの‘雲の峰’
菓子器は、鼠志野亀甲文平鉢写し
(「ビジュアル版お茶人の友6 茶席の菓子」世界文化社 P64より)
雲の峰
お菓子断面
『潰し餡を中に入れて、雪平で巻き、氷餅を付けた物です。
青空に出来た入道雲を表現しています。』(「御菓子処さゝま」より)
雲の峰・断面



奥田頴川・呉須赤絵写し習作・茶碗

抹茶茶碗もどきシリーズ第75作

上絵付け習作
奥田頴川
(おくだ えいせん)/呉須赤絵写四方隅切膳から、鳳凰の図柄を習作し、白磁茶碗に施してみた。

奥田頴川・呉須赤絵写し/習作・茶碗


『(図柄の本歌は)呉須赤絵写四方隅切膳:
(奥田)頴川は、十七世紀前後に中国の民窯で制作され日本にも輸出されていた呉須赤絵の作風に特に関心を抱いており、その写しを多く試みています。』
(「やきもの名鑑[3]楽と京焼」講談社 P111より)


図柄は頴川の鳳凰、赤絵呉須習作茶碗
鳳凰・赤絵呉須習作茶碗
正面
正面
高台
高台
お菓子は、さゝまの‘涼風’
菓子器は、青白磁皿
涼風
お菓子断面
『錦玉羹の中に、緑の羊羹と大納言を入れたものです。
見た目の涼しさを表現しています。』(「御菓子処さゝま」より)
涼風・断面

藍古九谷草花寿字文面取茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ第74作

藍古九谷草花寿字文面取茶碗  写し

古九谷には、中国明末天啓、祥瑞、中近東、ヨーロッパ、古伊万里風など各種の傾向が混在、変化に富んでいる。この十二角面取茶碗は、寛永-寛文に焼かれたと推定され、祥瑞風の影響が明らかに見られる。…わが国初期白磁染付の範囲にはいるべき焼物である。なお、中国の祥瑞は、わが国からの注文品で、器型、絵付けのすべてにわたって、指示がなされていたのである。』
カラーブックス369)「茶碗のみかた」保育社 P48より)


※ この習作は、筒型になりすぎた。本歌は、もう少し半筒型である。



藍古九谷草花寿字面取茶碗写し
藍古九谷草花寿字面取茶碗
正面
正面
高台
高台
お菓子は、さゝまの‘岩清水’
菓子器は、彫三島白花文鉢写し
(「ビジュアル版お茶人の友6 茶席の菓子」世界文化社 P51より)
岩清水
岩清水断面(小倉羊羹)
小倉の羊羹の間に、錦玉を流し込んだ物です。
岩の間を流れる冷たい清水を表現しています。』
菓子断面



絵志野平茶碗

抹茶茶碗もどきシリーズ第73作

絵志野平茶碗

電気窯で志野の緋色もどきが出るということが分かったので、夏用の平茶碗を作ってみた。

絵柄は、志野の図柄を習作。


絵志野平茶碗
絵志野平茶碗

正面
正面
高台
高台
お菓子は、赤坂青野の‘びわ'
菓子器は、彫三島平茶碗
びわ in  三島平茶碗

びわの断面
外:練り切り、中:こし餡
びわ・断面

高取焼 白幡山窯茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ第72作

高取 茶碗   写し

『(本歌は) 白旗山窯
白旗山の窯場が安定期を迎えたころの遠州切形茶碗。半筒状の形姿は、品位を保ち、ろくろ目を残し、特に高台には竹ヘラによる削り目をみせている。』
(「大名茶碗」平凡社 大河内風船子著 P33より)


高取 白幡山窯茶碗写し
高取 白幡山窯茶碗写し

正面
正面

高台
※ 高台側の写真が無かったので、想像による。
ただし、『高台には竹ヘラによる削り目…』という表現からはもう少し荒っぽい高台かもしれない。また、これも下面だとすると腰から畳付のキワの面取の具合が違っているかもしれない。

高台

お菓子は、赤坂青野の‘撫子'
菓子器は、安南染付梅花文茶碗写し
撫子 in  安南染付梅花文茶碗写し

撫子・断面
外:練り切り、一葉型羊羹添え
中:こし餡
撫子・断面

高取焼 下面茶碗 遠州切形写し

抹茶茶碗もどきシリーズ第71作

高取 下面茶碗 遠州切形 写し


『(本歌は) 江戸前期 白旗山窯
遠州
の導きを表現した茶入や水差しに優れた伝世品が点在する。この茶碗はまことに優美な作りで品格に富む。』
(「大名茶碗」平凡社 大河内風船子著 P29より)

『遠州好み窯といわれる高取、志戸呂、丹波、膳所などの茶陶の指導にもあたり、自らの意匠による茶道具の注文を行った。それは遠州切形と呼ばれ、型・色・陶土質まで細やかな指導がされている。 その好みを代表するものとして、面取・瓢箪・耳付・前押・七宝文・菱・箆どり等が挙げられ、茶入・茶碗はもとより、茶道具全般の多岐にわたっている。』
(「遠州好み」より)


高取下面茶碗 遠州切形写し
高取下面茶碗 遠州切形写し

正面
※ 写しは、黒唐津と黄伊羅保の片身変わり。そして黄伊羅保には織部をたらしてみた。

正面

高台
『(下面とは) 腰から畳付のキワに面が取ってあり…』
(「遠州好み」より)
※ 高台側の写真が無かったので適当に想像して成型したが、もう少し直線的にシャープに面取りする必要があったようだ。

高台

お菓子は、赤坂青野の‘あじさい'
菓子器は、御所丸黒刷毛茶碗写し
あじさい in 御所丸黒刷毛茶碗写し
あじさい・断面
上:花型白・紫羊羹
外:上用饅頭
あじさい・断面

薩摩焼筒茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ第70作

薩摩焼 筒茶碗写し


『(本歌は) 江戸中期
文禄・慶長の役に出陣した島津義弘が、文禄四年(1593)八十余名の朝鮮陶工を連れ帰り、慶長六年(1601)金海帖佐で開窯させた。また一方慶長四年(1599)朴平意は串木野窯を起こしたが、慶長八年(1603)廃絶し、ついで苗代川焼が起こった。
この茶碗は、帖佐時代から焼造されている黒筒茶碗で、薩摩の典型的な作品といえる。テクニックを表さない作調ながら、垢ぬけしたところのうかがえる佳碗である。』
(「カラーブックス413)茶碗のみかた?」保育社 P62より)


薩摩焼筒茶碗写し
薩摩焼筒茶碗写し

正面
正面

高台
高台

お菓子は、赤坂青野の‘つばめ'
菓子器は、仁清色絵忍草文茶碗写し
つばめ in  仁清色絵忍草文茶碗写し

つばめ・断面
外:白羊羹そぼろ、錦玉羹のせ、燕型羊羹添え
中:小豆羊羹入りつぶ餡
つばめ・断面

上野焼 紫蘇手茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ第67作

上野(あがの) 紫蘇手茶碗写し

『(本歌は) 江戸後期 上野皿山本窯
上野本窯の江戸後期には、窯変で紫蘇手や三彩などの碗が造られ、楽風な形の碗で、類型化したのが数多く造られた。』
(「大名茶碗」平凡社 大河内風船子著 P83より)



上野焼 紫蘇手茶碗写し
写しは、柚子黒釉
上野 紫蘇手茶碗

正面
茶碗正面

高台側
高台

お菓子は、たねやの花しづく
花しづく

縄文式土器碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ第65作

紐作り
    縄文式土器碗 写し 縄文晩期

『(本歌は)ところどころに朱塗りの痕跡の見られる文様は、よく整理されていて、とても原始土器とは思えないほどに近代的でさえある。形態はシャープであり、素地は光沢ある黒色で、堅く、よくしまり、吸湿性が少ない。
このような作品に出会うと、いつも感じ入るのだが、人類はこの二千数百年間の間に、どれほどに進歩したのだろうか。いたずらに機械万能を謳歌したばかりに、いろいろな種類の公害が相次ぎ、生きていくということさえ難儀な世の中ではある。』
(カラーブックス369「茶碗の見方」保育社 P4より)


縄文式土器碗写し茶碗
縄文式土器碗写し茶碗

正面
正面

高台側
高台側

お菓子は、銀座鈴屋の釜だし甘納豆(渋皮付栗) in 李朝白磁鉢形割高台茶碗

実は、縄文時代のお菓子をテーマに色々調べてみたが、結局あの時代、栗・くるみ・栃の実などのクッキー様のものが遺跡から発掘されているのみで現在似たものを手に入れることはできなさそうだった。そこで、この栗の菓子を代わりに選んだ。

釜だし甘納豆(渋皮付栗)

栗断面
栗断面

上野焼 鉄彩茶碗写し

抹茶茶碗もどきシリーズ第63作

上野焼(あがのやき)鉄彩茶碗 写し

『(本歌は)上野 鉄彩茶碗 釜ノ口窯 桃山末期~江戸初期
古上野に鉄絵の向付はあるが、古格のある鉄彩の茶碗はほとんどない
伝世品が少ないだけに注目されるだろう。』
(「茶碗百選」平凡社 大河内風船子著 P79より)


二人の出会いから始まった上野焼の歩み
豊臣秀吉による「文禄・慶長の役」により招致され、加藤清正公に従って
帰化した、李朝陶工・尊階
そして、西国大名の中でも茶道に造詣が深く、千利休から直接教えを受け
「茶禅一味」の奥義を極めた、豊前藩主・細川忠興候(三斉)。
この二人の出会いが、上野焼四百年の歴史の最初の一歩でした。
細川忠興候は1602年尊階を招き、水質、釉油の採取に最も適した上野の地に窯を築きました。尊階は地名にちなんで上野喜蔵高国と名を改め、細川忠興候の指導により、三斉好みの格調高い茶陶を30年間、献上し続けました。』
(「上野焼の歴史」より)

遠州七窯のひとつに選ばれた上野焼
徳川時代になると、徳川家茶道指南役の大茶人・小堀遠州が茶器を作るために全国七ヶ所の窯元を選定しました。これが遠州七窯です。
中でも独特のあたたかみを持つ上野焼は、当時の茶人に大変好まれたそうです。』
(同上)

※ 岡山赴任中、車で北九州の窯場巡りをした。上野焼もその一つで、陶芸作家・熊谷無造窯を始め色々な店を覘いた。  福岡県田川郡福智町上野



上野焼 鉄彩茶碗写し
上野焼 鉄彩茶碗写し

正面
正面

高台側
高台側

お菓子は、新宿・花園万頭の季節の菓子「出世鯉」
断面
出世鯉

古赤絵花鳥文茶碗・図柄習作

抹茶茶碗もどきシリーズ第61作

上絵付け
古赤絵花鳥文茶碗 図柄写し


『(本歌は)この茶碗は明時代嘉靖期に焼かれたものである。嘉靖は明代赤絵の爛熟期といわれ、赤絵、金襴手の豪華絢爛とした焼物が景徳鎮窯で焼造され諸外国へ輸出された。ために本国の中国では、これらの遺品はほとんど無いといわれる。…
古赤絵
は、もっとも古い赤絵という意味ではなく、中国赤絵磁器の一種に対するわが国での俗称で、単に古渡りの赤絵というほどのことで、南京赤絵の手より古いということなのである。』
(「カラーブックス369)茶碗のみかた」保育社 P97より)


古赤絵花鳥文茶碗 図柄写し
古赤絵花鳥文写し

正面
鳥が海老と言われて、めげた習作。
正面

高台側
高台側

お菓子は、干菓子。
‘茶菓工房たろう’の、森の香

奇を衒わない粉引茶碗

抹茶茶碗もどきシリーズ第60作

奇を衒わない粉引茶碗


茶碗の形状は色々あるが、ここではもっとも平凡な碗形(わんなり)の茶碗を作った。
※ここで碗形(わんなり)とは、
木製のお椀に似た形で背淋割りに低く、丸く抱え気味で、朝鮮の伊羅保茶碗や、徳川中期の黄瀬戸、御深井焼などに多く見かけます。』
(「茶碗鑑賞」より)

これまでも粉引茶碗には色々チャレンジしてきたが…。
1)今回は粉引茶碗で、火間などを作為的に作らずに。
2)そして、(熊川で実験したような)人工的な雨漏りを狙わずに。
ごくごく自然に、平凡に、奇を衒わずに作ってみた。

しかしこれまでも、白化粧土の違い、粉引透明釉の違い、それぞれの浸漬時間(厚み)、焼成雰囲気などによって斑の出方・色合いなどひとつとして同じものが再現されていない。
対馬の小林東五さんのような粉引は遠いかなたにある。

(これでも割らずに100年以上使い続ければ、雨漏りなど変化が出てくる筈である?。
もっとも口辺の白化粧土が剥げるのが先に来ると思われるが。)


今回の粉引茶碗
粉引茶碗

奇をてらわない粉引茶碗の正面
正面

高台側
高台側

菓子断面
お菓子は、榮太樓總本鋪の桃の花
菓子断面

上絵付けの練習をした

当教室で、上絵付けができることになった。

◆ 上絵付け練習・一号作

抹茶茶碗もどき
器形と絵の構図は、赤膚焼木白奈良絵茶碗写し
・本歌は、カラーブックス「茶碗のみかた」保育社 P63から
但し、絵は人物と松の木が複雑なため、現代作家の尾西楽斎から習作。
・尾西楽斎の図柄は、「現代陶芸茶碗図鑑」光芸出版 P47から


赤膚焼(あかはだやき)は奈良県奈良市、大和郡山市に窯場が点在する陶器である。草創は判然としないが、桃山時代に大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる。江戸後期には藩主、柳沢保光の保護を受け、幕末には名工、奥田木白が仁清写しなどの技術を披露し、世に広めた。
小堀遠州が好んだ遠州七窯の一つにも数えられている。…

奈良絵は)室町時代の末期頃から江戸時代にかけて作られた、横本形式の絵草紙「奈良絵本」に描かれた絵を奈良絵と呼んでいる。
  構図も単純で明るい彩色の素朴な画風は「過去現在因果経」(釈迦の前世の生涯から現世に生まれて苦行を経て覚りをひらき、その後多くの人々を得度させたことを説いている。)にみられ、大和絵の伝統を引くものである。
 赤膚焼の名工、奥田木白(江戸末期の陶工、赤膚焼の中興の祖)によって、赤膚の温雅な上釉に巧みな筆觸でかかれた奈良絵は、奈良の豊かな気分を充分にただよわせた、掬めども盡きぬ、雅趣の漾うものであります。』
(「私も赤膚焼!-MIHO企画」より) 


赤膚焼習作(その1)
赤膚焼・上絵付け練習

茶碗正面
正面

高台側
高台側

お菓子は、蘇蘇
但し、洋菓子(チーズケーキ)である。奈良 天平庵の菓子であり和菓子の雰囲気があること、赤膚焼と同じ奈良の菓子匠のものであることから使用した。
菓子断面
菓子断面・蘇蘇

真熊川「朽木」風茶碗の習作

抹茶茶碗もどきシリーズ第57作

真熊川「朽木」風茶碗 習作

『(本歌の「朽木」についての説明) 熊川(こもがい)は熊川港の歴史からみて、すでに室町時代には渡来していたのではないかと思われ、茶碗としての登場は三島や井戸同様案外古いかと思われる。それで熊川は早くから茶人に親しまれたようで、古唐津や古萩でも熊川に倣ったものが多く造られている。茶人は熊川を分けて、真熊川・咸鏡道・紫熊川・鬼熊川・平熊川・後熊川・滑熊川などとしている。
 この朽木は真熊川(まこもがい)の手である。朽木の銘は、丹波福知山の城主で、松平不昧公に茶を学んだ朽木竜橋所持に因むものである。彼はまた朽木伯庵の所持によっても知られている。
 口造り薄手に、端正な端反りの造りは、真熊川でも上手のいわゆる咸鏡道(かがんどう)にあたるものであろう。特有の細かい貫入のある、やわらかい淡枇杷色釉が掛かっているが、この手は慶尚南道の晋州の産とみられる。雨漏りが景となっていて、見込みには約束の鏡がある。』
(「決定版お茶の心 茶碗」家庭画報編 世界文化社P47より)

★ ここに、景色となっている雨漏りを人工的に模写しようと試みたのが、この習作である。高さと口径の比率は無視してください。遊びのために出来損ないの器形のものを使って、雨漏りのようなものができないか試した。白化粧土を拭ってみただけのことであるが。


真熊川「朽木」風茶碗
真熊川「朽木」風茶碗

朽木風茶碗・正面

‘雨漏り’
の習作
朽木風茶碗・正面

高台側
高台側

榮太樓總本鋪の上生菓子
雛ごろも
・断面
上生菓子:雛ごろも断面

絵志野茶碗 銘「広沢」写し

抹茶茶碗もどきシリーズ 第56作。

絵志野茶碗 銘「広沢」写し

『(本歌の説明)志野が織部、黄瀬戸と同じく美濃の土岐、可児両郡で焼成されたことが判明したのは割合近年のことである。中でも卯花墻や羽衣、そしてこの広沢などという代表作は大萱牟田洞の窯で焼かれたものらしいということは、出土の破片によっても証明されるに至っている。いずれもむっくりとしたもぐさ土に、長石釉も重厚で、発色も見事なものが多い。このうちもっとも八色が鮮烈であるのは羽衣であるが、対照的にこの広沢は穏やかなだけに気品に満ち、侘びた風情をすら感じさせるのである。銘の広沢も、洛西嵯峨の野にあって数々の歴史をとどめつつ静まり返っている広沢の池を偲んだもので、加えて図中にある円相の重なりはさながら水面に映る秋の月を連想させるのである。…東京赤星家の伝来である。』
(「決定版お茶の心 茶碗」家庭画報編 世界文化社P91より)

★ 後から本歌が何か調べるのにてこずった。
 その主な原因は、重厚な長石釉が再現できなかったことによる。
 正面の葉っぱのような鉄絵の部分も、大半が長石釉で隠れてしまわなければならなかった。裏面の重なる円相もその正体をあらわにしてはならなかった。
 高台も二重輪にしなかった。
 志野の習作は難しい。

☆ しかし、その中で電気炉でこのくらい赤い発色が出たことは喜ばしい。
  教室の先生もその点は自慢げであった。


絵志野茶碗写し
絵志野茶碗

茶碗正面
正面

高台側
高台

とらやの菓子・断面
一重梅(ひとえうめ)

とらやの菓子・断面

プロフィール

yogaz

Author:yogaz
飯山満通信へようこそ!
満73歳になりました。予定寿命まで後7年です。ただいま終活中です。当面75歳までは、ボランティアガイドと生涯学習・介護予防のお手伝いを続けたいと思います。
なお、2006年6月14日から始めた飯山満通信は、2013年12月14日、ブログを引っ越しました。Dtiblogのブログサービスが終了したためです。

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